はじめまして。


BL小説を書いております、やぴと申します。
こちらは男同士の恋愛小説となっております。
ストーリーの関係上、性描写があります。
ご理解いただける方のみ、自己責任において閲覧ください。
実際は小説と呼べるほどのものでもなく、趣味で書いていますので、稚拙な文章ではありますが楽しく読んで頂けると幸いです。

コメントなど気軽に頂けると嬉しいです。
誹謗中傷などの心無いコメントは当方で削除させていただきます。ご了承下さい。

迷子のヒナ 281 [迷子のヒナ]

アンディ・スタンレー弁護士は広くて豪華な客間で長らく待たされていた。

こういう時に限って、付き添い役のエドワードは同行していなかった。

上着のポケットから懐中時計を取り出し、そっと開いて時間を確認してみる。ゆうに三〇分は待たされているが、誰かが――誰でもいい!――廊下を通る気配すら感じられない。

広い場所にひとりでいることに慣れていないアンディは、恐ろしくて仕方がなかった。

出されたお茶はとっくに冷めている。ひとりでお茶を飲むことにもなれていない為、手は付けていない。美味しそうなレモンケーキは、切り口が乾燥でパサつき始めている。

誰か早く来て。アンディは切に願った。

脇に置いた鞄を膝に乗せ、書類と一緒に預かって来た手紙を取り出す。

今日はこれをヒナさんに渡すために来た。書かれている内容は知っているが、この手紙を託した伯爵の意図が読めない。

たとえ意図が読めたとしても、アンディに口出しする権利はない。

そう。もちろんない。ない、のだが……初めての依頼主が困ったことになるのを見て見ぬ振り出来るかといえば、出来るはずない。

まだ困ったことになると決まったわけではないけれど。

「ミスター・スタンレー。お待たせして申し訳ない」

突然声を掛けられ、アンディは浅く腰を掛けていた椅子から飛び上がった。声のした方に顔を向けると、バーンズさんが大股でこちらへやって来ていた。が、ヒナさんの姿は見えない。

アンディは立ち上がり、にこやかに応じた。本当はひとりぼっちで辛かったけど。

「あの、ヒナさんは?」アンディは尋ねた。

「えぇっと……もう間もなく来ると思います」ジャスティンはそう言ってアンディの向かいに腰をおろすと、干からびたケーキと冷めた紅茶を見て顔を顰めた。

アンディは気まずい思いで腰をおろすと、形だけでもと、ティーカップに手を伸ばした。

だがすぐに背の高い執事が若い従僕を従えて客間へと入って来て、アンディは慌てて手を引っ込めた。執事は淹れたての紅茶を、従僕は最初に出された茶菓子の何倍もの量の、ありとあらゆる甘いものをのせた銀盆を手にしている。

それが自分にではない事をアンディは薄々勘付いてはいたが、チョコレートホイップのかかった何かを見つけ、期待せずにはいられなかった。

僕のもあるだろうかと。

「遅れてごめんなさい。アンディ、待った?」ヒナの溌溂とした声が客間に響いた。

アンディはまたしても飛びあがった。仕事で来たのに、欲張りな事を考えてしまうなんて、なんて恥知らずな。

「ええ、少し……」と顔を真っ赤にし、控えめに答えた。

つづく


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迷子のヒナ 282 [迷子のヒナ]

ヒナはもたもたしていた。

本人はもたついているつもりはないのだが、いかんせん下半身はガタガタだった。腰から上は元気いっぱいなので、テーブルに並べられたおやつ目指して、目を輝かせながら、歩きはじめの赤ん坊並みの速度で進んでいた。

その原因を作った男はすでに弁護士の前に着席し、淹れたて熱々の紅茶を啜って、ホッと一息ついていた。

長らく待たされ不安に駆られていた弁護士アンディも、ヒナを待たずして、取り分けられたデザートに手を伸ばしていた。

ヒナは座り心地の優しそうな椅子を選ぶと、靴を脱ぎ、足をあげ、肘掛とクッションに寄り掛かるようにしてなんとか腰を落ち着けた。この体勢ではデザートにも紅茶にも手は届かなかった。

だがこの屋敷には優秀な執事がいる。ホームズは丸く小振りなティーテーブルをあっという間にヒナの横に置き、そこに必要なものすべてを移動させた。

ここにジェームズがいたらなんと言うか。行儀が悪いと言って、ヒナのお尻の都合など考えもせず、椅子にきちんと座らせていただろう。

ヒナは突如ジェームズがやって来ないことを願った。おどおどしながらまだ熱い紅茶を恐る恐る啜る。「アチッ!」

「それで、ミスター・スタンレー」

このまま単なるお茶会になりそうな雰囲気のなか、ジャスティンが口火を切った。

「あの、アンディと呼んでください。もし、バーンズさんがよろしければですけど……」アンディはおずおずと言った。ミスターなどと呼ばれることに慣れていないのだ。

ジャスティンは頬を緩めた。「もちろん。では、アンディ――」

「あの、まずはヒナさんにこれを」そう言ってアンディはヒナに手紙を差し出した。が、ヒナはテーブルを挟んだ、更にその向こう、ジャスティンの背後に座っているので、もちろん手は届かない。

ホームズが手となり足となり、ヒナに手紙を届ける。

「おじいさまからです」アンディは言った。

ヒナの手が震えた。

おじいちゃんがヒナに手紙をくれた。嬉しくて飛び跳ねたいけど、今日は身体が痛くて無理だ。

「読んでいいの?」と震える声で尋ね、アンディが頷くのを見て、ヒナは手紙を開封した。

一枚の紙片に綴られた文字を目で追い、しばらくして顔を上げた。

「全然読めないっ!」

ラドフォード伯爵の文字は、利き手とは反対の手で目を瞑って書いたのではという程、判読不可能だった。

つづく


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迷子のヒナ 283 [迷子のヒナ]

「ヒナ、貸してみろ!」ジャスティンはヒナから手紙をひったくった。

同じように目を落とし、手紙を読み進めるが、徐々に眉間にしわがより、うーんと唸り、手紙を放棄してしまった。

伯爵はこの手紙でヒナを侮辱するつもりだろうか?ヒナをよそ者とみなし、手紙も読めないと嘲笑するつもりか?

ヒナがはちきれんばかりの笑みで手紙を受け取ったときの姿が、ジャスティンの目の前にちらつく。どうやら意地の悪いひねくれた伯爵は、ヒナを拒絶するだけでは物足りないらしい。

「手紙の内容について、僕の口からお知らせしてもいいでしょうか?」

ジャスティンの険悪な表情に怖気づいたのか、アンディは怯えたように身を縮め、か細い声で告げた。

「アンディ、読めたの?」ヒナは目を丸くして尋ねた。

「あ、いいえ、まさか!」アンディはぶんぶんとかぶりを振った。「その手紙はヒナさんへの私信ですから、僕は見ていません。けど、伯爵からの言付けがあります。おそらく手紙の内容もそれに関する事だと思います」

ジャスティンは、知っているなら最初から言え!などと口にはせず、警戒するような顔つきで弁護士の言葉を待った。

ヒナはやっと冷めた紅茶を上機嫌で飲み干し、一口サイズのショートブレッドをふたつ手に取った。ひとつを口に入れ、ぽろぽろとかすをこぼしながら、アンディが紙の束をペラペラめくるのを見守っている。

アンディはこほんと咳ばらいをした。

「えーっと、ヒナさんが伯爵の領地のひとつ、ご両親の眠る場所に立ち入ることを許可するというものです。つまり、ヒナさんはお父さんとお母さんに会いに行けるんです!」アンディは興奮気味に言葉を切った。ぽかんとする一同を見回し、なにか間違いをしでかしただろうかと不安になる。つい興奮してしまったのは、伯爵からの伝言のなかで、いま言ったことが一番マシ――いや、一番喜べる話だったからだ。

アンディは沈む思いで言葉を続けた。「でも、これには条件があるんです。伯爵の指示のもと、ヒナさんは指定された日にラドフォード領に入ります。暫く滞在して、ラドフォードの歴史について学んでもらいたいそうです。おひとりで……」

「許可だと?」真っ先に声をあげたジャスティン。その声には怒りと憤りが滲み出ていた。「条件?指示?学べ?ヒナひとりで?いつ行くか、いつ戻るのかを決めるのはヒナであって、あのクソじ――伯爵ではないっ!」

ジャスティンは背後のヒナが飛び上がるほどの勢いで、ソファに拳を叩きつけた。そう簡単にヒナが両親に会いに行く許可がおりるとは思ってはいなかったが、もはや何の権利も有しない分際で伯爵の好きにさせてたまるか。

「それが済み次第、クロフトさんに後継人の座を譲るそうです。ということは、伯爵はヒナさんに対するすべての権利をいま現在有しているということです」

「おじいちゃんの言うこと、聞かないといけないって事?」ヒナは目をしばたたき、困ったように尋ねた。

「大雑把に言えばそうなります。でも、僕はこんなのおかしいと――すみません。僕には口出しする権利なんてないのに、でも、でも、僕に出来る事はないんです……」アンディは悔しそうに口を歪めた。

おそらくパートナーであるエドワードに相談したのだろう。伯爵はどうしてこんな意地悪をするのか、ヒナがひとりで知らぬ場所に行かなければならない――そうしないとここにいる家族と引き離すとあからさまに脅すのか、憤りをぶつけたのだろう。

日本から使者が戻れば、ヒナは誰にも束縛されない自由の身となるはずだ。

どうしたいかはヒナが決め、ジャスティンはそれに従う。もちろんヒナが自分を選んでくれると信じているし、それ以外の選択肢はないと思っている。

伯爵はヒナを簡単には許さない――自由にはしないという事か。それほどまでに自分の娘を憎んでいるという事だ。

なんて恐ろしい事実だろうか。

つづく


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迷子のヒナ 284 [迷子のヒナ]

ジャスティンにはヒナの揺れ動く心がありありと感じられた。

「ヒナ、行かなくてもいいんだぞ」
そう言ったのは果たしてヒナのためなのか、自分のためなのか……。

「そうだよ、ヒナ。行く必要なんてない」と、部外者の声。

ジャスティンは渋面を作り、振り返った。後方のヒナも器用に身体をひねって、まるで自宅の中を闊歩するかのようにこちらへ向かってくるパーシヴァルに「あ、パーシー」と間の抜けた声をあげた。

「ひどいな、次期後継人をのけ者にするなんてさ」と言って、ヒナの座る長椅子のふっくらとした肘掛け部分に腰を引っ掛けた。「で、ヒナ、どうして干からびたチーズのようにねじれて転がっているんだい?」

「え?干からびたチーズってなに?」ヒナはぽかんと口を開けた。

「んん、気にしないで」パーシヴァルは手をひらひらと振り、ホームズにお茶を頼んだ。

ホームズはいい顏はしなかったが、無駄のない動きですべるように客間から出て行き、しばらくして真っ白なティーポットとカップを手に戻って来た。いつまで経ってもパーシヴァルを歓迎する気にはならないようだ。

パーシヴァルは熱いお茶でひと息つくと、「ラドフォードに歴史なんてものはないからね」とそっけなく言った。

「古い家柄だが、残っているのは伯爵とこいつだけだしな」と侮蔑混じりにジャスティンは言った。

「おじいちゃんに会える?」ヒナは誰ともなしに尋ねた。細い首をあっちこっちと回し、全員の顔に視線を止めた。

「会えないと思うよ」とパーシヴァル。期待するだけ無駄だと諭すような口調だ。

「俺もそう思う」とジャスティン。

最後にアンディが「わかりません」と答えた。

ついでにホームズが部屋の隅でそれとなく頷いた。

「でも、おじいちゃんの家なんでしょ?」

「ええ、ですが、伯爵はこの一〇年、この領地に足を踏み入れていません。現在はロンドンにお住まいです」アンディはさりげなく言ったが、この情報に一同は色めき立った。

そうとは知らなかったヒナが一番驚いたのだが、パーシヴァルとジャスティンは知っていて口を噤んでいた為、揃ってアンディを鋭く睨みつけた。

それだけでは足りず、ジャスティンはアンディの首根っこを掴んで廊下へ引きずり出した。

「あ、あの、バーンズさん」アンディは顔を真っ赤にし、目には涙を滲ませた。なすすべなく引きずられ恐ろしいやら恥ずかしいやら。

ジャスティンは、小柄で軽い――ついでに口も軽い――アンディを壁に張り付けにし、憤然と見下ろした。

「いますぐにでも会いに行くと言い出したら、いったいどう責任を取るつもりだ?ヒナがみじめに追い返される姿が見たいのか?」

「すみませんっ!秘密だとは知らなくて……」アンディに悪気はなかった。ちょっと得意になってお喋りが過ぎただけ。なにせ弁護士らしい仕事はこれが初めてなのだから。

パーシヴァルが廊下に出てきた。「その辺にしておいたら?彼は公爵の恋人だぞ」さらりとアンディの秘密を暴露する。悪気はありありだ。

「あ、いえ、恋人では……」アンディは慌てて否定した。だって恋人ではなく伴侶だから。もちろんそんなこと口には出来ないが。

パーシヴァルはふふっと笑い「ともかく、ヒナを説き伏せるのが先だよ。きっと会いに行きたがるだろうから」と言って、なかに戻って行った。

その後、アンディは追い返され、バーンズ邸の人員を総動員して、ヒナの説得を試みることになった。

つづく


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迷子のヒナ 285 [迷子のヒナ]

初めての大仕事は失敗に終わった。

アンディは両手で顔を覆い、あまりの情けなさに涙を零した。

ぼくはやっぱり、田舎で書類仕事をしているのが精一杯なんだ。エディに付いて街へ出て来たのがそもそもの間違いだった。

お父さんの期待に応えられなかった。ぼくみたいな息子を持って恥ずかしいと思うに違いない。養子にするんじゃなかったと思うかもしれない。お母さんはどう思うだろうか?

エディは?
ひとりじゃ何もできないと思うよね……きっと。

ああ、家にも事務所にも戻りたくない。初めからやり直せたらいいのに。

無情にも馬車は公爵邸の前で止まった。扉が開き、御者がさあどうぞと催促する。

アンディはいつまでもぐずぐずした。うつむき、膝の上で親指の爪をぱちぱちと弾き、唇を突き出して、まるで駄々をこねる子供のようだ。

「アンディ、いつまでそうしてるつもりだ?」

気付けばエドワードがこちらを見上げていた。服装からして外出から戻ったばかりのようだ。

「エディ!あ、あの……」

「ったく」エドワードが馬車に乗り込んできた。「合図するまで適当に走らせろ」と御者に命じ、アンディの横に座った。

間もなく馬車は動き出し、アンディは大きな身体にそっと身を寄せた。

エドワードはアンディのおでこに口づけ、きっちりと分けられた前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。

「仕事は終わりだろう?」

そう。追い出されて、終わった。バーンズさんはひどく腹を立てていたし、ヒナさんは普段通り『バイバイ』と言ってくれたけど、ちっとも名残惜しそうじゃなかった。

「失敗しちゃった……」アンディは溜息交じりに呟いた。

「ん?」エドワードは聞いているのかいないのか、アンディの頬に手を添え震える唇をやんわりと塞いだ。

何もかも見透かされているようで、ほんの少し腹立たしい気持ちになった。けれど優しく慰めるような口づけに、アンディはそっと目を閉じ、束の間仕事のことは忘れることにした。

エドワードのキスは、アンディの挫けた心を見事に修復した。

まだ終わってない。次は失敗しないようにしなきゃ。

アンディはそう心に誓った。

つづく


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あとがき
こんばんは、やぴです。
ちょっと番外
アンディとエディはずっとラブラブです。 

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迷子のヒナ 286 [迷子のヒナ]

みんなでヒナを馬鹿にしてっ!

ヒナはむっつりと押し黙り、ささやかな抵抗を試みていた。

ヒナを一番傷つけたのはジャスティン。

ヒナが今にも裸足で屋敷を飛び出して行きかねないと思っているようで、閉じられたドアに寄り掛かり、出口を塞いでいる。

今日は靴下履いてるんだからっ!

ヒナは見当違いな事を思いながら、満を持して登場したシモンに冷ややかな視線を向けた。

「は~い、ヒナ。ご機嫌ななめなんだって?」

普段着姿のシモンはデザートを片手にヒナの傍に椅子を引き寄せ、優雅な物腰で着席すると、デザートを目の前にちらつかせ、お好きにどうぞとばかりにテーブルに置いた。

おやつで釣ろうったって、そうはいかないからねっ!

シモンはフランス人らしくお洒落な格好をしていた。特に目を引いたのは、空色とレモン色のストライプのベストだ。お洒落に疎いヒナは、ベストの良し悪しはさることながら、いったいどこでそんなベストを売っているのだろうかと不思議に思った。

「ななめじゃないよ。考え事してただけ」ヒナは答え、魅力的なデザートから目を背けた。

「ははっ、だろうと思った。ヒナは考え事する時、ここにものすごく皺が寄るからね」シモンは人さし指で眉間をごしごしと擦りながら言った。

ヒナはその仕草を真似、「知らなかった」とつぶやいた。シモンはヒナのことなんでも知っている。

「ところで、わたしの頑固で癇癪持ちの祖父の話をした事があったかな?」シモンは一旦言葉を区切ったが、ヒナの答えを待たずして言葉を続けた。「あれは、シモンが一〇歳の頃、ある日釣りに出かけた時のことだ。祖父は釣りなどという道楽遊びが好きじゃなかった。しかも、夕方から天気が崩れるからと余計に反対したんだ。もちろん、少年シモンは祖父の言うことには耳を貸さず、今晩のおかずでもと思って意気揚々と出掛けたのさ。で、どうなったと思う?」

「どうなったの?」ヒナは鼻息荒く訊き返した。早速話に引き込まれている。

「めちゃくちゃ釣れたのさっ!」シモンは両手を大きく広げた。

「わぁー!!」ヒナは手を叩いた。

「それで調子に乗っていた少年シモンは、時間が経つのも忘れ、気付けば日は沈みかけ、空は曇天へと様変わりしていた。ぽつぽつと雨が降り出しても、シモンは釣りをやめなかった。川岸で足首まで水に浸かっていることに気付き、ようやく、帰るべきだと判断したのさ。でも、ちょうどその時、大物が引っかかってね……」シモンはその時の様子を脳裏に浮かべているようで、ずっと遠くに視線を据えていた。

「で、夢中になるあまり、シモンは増水した川に呑み込まれたのさ。シモンはもがいた。実は泳げなくてね――」シモンは恥ずかしげに肩を竦めた。

「ヒナも!!」水遊びは大好きなのに、足の届かない場所は全然ダメなのだ。

「おや、そうだったのかい?わたしはあれ以来水辺に近づくのも怖くてね……あの時、死んでいてもおかしくなかったんだ。でも、もうダメだと思った時、シモンの目の前に大きくてごつごつした手が差し出され、シモンは無我夢中でその手を掴んだ」

「それがおじいちゃん?おじいちゃんがシモンを助けたの?」もはやヒナの興奮は最高潮で、シモンの何でもない溺れた話に夢中になっていた。

シモンはチチッと舌を鳴らし、立てた人差し指を大袈裟に振った。

「ノン!その手はシモンの隣に住む優しいおじさんの手だった。彼は強くて逞しく、わたしは彼を将軍と呼んでいた。将軍はぐったりとするシモンに口から空気を送り込んで、呼吸を助けてくれた。家に連れ帰るとすぐに医者を呼んで、しばらくベッドに寄り添ってくれたんだ。つまり命の恩人だよ」

ヒナは将軍という言葉に惹かれつつも、いったい頑固で癇癪持ちのおじいちゃんはどこへ行ってしまったのだろうかと、密かに考えていた。

この話の論点は、おじいちゃんの言うことは聞きなさいなのか、それとも身近にいる優しく逞しい人を頼りにしなさいなのか、いったいどちらだろうか?

「だからヒナ、元気なうちに、シモンの特製デザートを食べておく事を勧めるよ」

結局、わからずじまいだ。

つづく


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迷子のヒナ 287 [迷子のヒナ]

シモンの話がどこまで本当のことなのかはさておき、ヒナはおじいちゃんには会いに行かないからと言って、ひとりよたよたと部屋に戻って行った。

手を貸そうとしたジャスティンの手をぴしゃりと払いのけて。

ジャスティンは自分でも想像していなかったほど落ち込んだ。

それに追い打ちをかけるように、タイミングよく帰宅したジェームズが状況をよく知りもしないで「随分と嫌われたようだな」と偉そうに言うものだから、ジャスティンはますます落ち込み、これからのことを考える気力を失くしかけた。

「ジェームズ、君はうまく難を逃れたようだね。さっきまで大変だったんだぞ」

一時姿を消していたパーシヴァルがどこからともなく現れた。どさくさまぎれにジェームズに擦り寄ったが、案の定ぴしゃりと払いのけられた。

「弁護士はいったいなんだって?」ジェームズは尋ね、さらに擦り寄るパーシヴァルを肘で突いて遠ざけた。

ジャスティンは渋い顔で手近な椅子に腰をおろすと、弁護士が持参したヒナの祖父の無謀な要求を話して聞かせた。

向かいに座るジェームズは、いちいち横槍を入れるパーシヴァルとは違って、表情ひとつ変えず、口をひとつも差し挟まず最後まで聞いていた。

そして言った。「弁護士を脅したのはまずかったな。彼は公爵の愛人だぞ」

「ふんっ!なにが愛人だ。パーシヴァルと同じこと言いやがって」イライラと毒づくジャスティン。あのおどおどした弁護士がもっとしっかりしてさえいれば、状況はもっとましだったのではと思わずにはいられない。

ひとまずこの場は収まったが、ヒナは必ず両親に会いに行くと言う。

なぜなら、それがヒナだし、選択肢は他にないから。

「ジェームズ、ヒナはいつ祖父の招待を受けるか分からない」ジャスティンは皮肉交じりに言った。「伯爵の領地に入らず、ヒナを見守れるような場所を探しておいてくれ。その時が来たらすぐに行動を起こせるようにしておきたい」

「ヒナについて行く気か?滞在がどのくらいになるのか分からないんだろう?」ジェームズが呆れ声で訊いた。

「そう簡単にヒナをひとりにさせると思うか?伯爵のたくらみが何かは知らないが、遠く離れた場所でもどかしい思いをするのはごめんだ。ヒナが呼べばすぐに駆けつける。そうするのが俺の義務で権利だ」

恥ずかしげもなく啖呵を切ったジャスティンに、ジェームズは鼻を鳴らした。馬鹿にしているのかうらやましいのか、ジャスティンはこの際ジェームズの礼儀知らずな態度を見過ごすことにした。細かな事を気にしている場合ではない。

パーシヴァルはヒナの食べ残したショートブレッドを食べながらくすくす笑っていたが、ふと何か思いついたように、目障りなくすくす笑いをやめた。

「そういえば、境界を挟んですぐの場所に、荘園があったなぁ。どこの誰が所有しているのかは覚えていないけど、そこを借りたらどう?」

ジャスティンは驚愕の眼差しでパーシヴァルを見た。ここにきて初めてパーシヴァルが役に立つとは。ヒナのお願を聞いて、こいつをここに住まわせておいてよかった。

「ジェームズ、早速手配しろ!」

つづく


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迷子のヒナ 288 [迷子のヒナ]

ふてくされているときのヒナは、ひどくそそる。

夕食前にヒナの機嫌を取っておこうと部屋へ戻ったジャスティンは、火の入っていない暖炉の前でうつ伏せで寝転がっているヒナを見つけ、そっと近づいた。

ヒナは熱心に本を読んでいた。

おそらくニコラに貸してもらったロマンス小説の類だろう。あまりにも甘ったるいストーリーと思いのほか過激な描写に顔を顰めたくなるが、ヒナはなぜかとても気に入っていて、ひとりで時間を持て余したときにはよく読んでいるらしい。

「ヒナ――」

驚かせないようにそっと声を掛けたつもりだったが、ヒナはきゃっと悲鳴を上げ、飛びあがらんばかりに驚いた。読みかけの本を慌てて閉じ、こわごわとこちらを見上げる。

「本を読んでいたのか?」と尋ねると、ヒナは小さくこくんと頷いた。

ロマンス小説を読んでいたことが恥ずかしいのか、それともまだ怒っているのか、ヒナはほんのり頬を上気させている。

またこの顔も、ひどくそそった。

「どうしたの?」と、ヒナはそっけない。

「んん?夕食まで時間が空いていたから一緒に過ごそうと思ったんだけど、迷惑だったか?一緒にいたくないか?出て行った方がいいか?」ジャスティンは言いながら、ヒナの横に寝そべった。

ヒナは何か言おうと口を開きかけたが、降参だというように口をすぼめ、すりすりと擦り寄って来た。

ジャスティンはヒナを抱き寄せ、波打つ髪に口づけた。

「髪を解いたのか?」

「うん。ずっと結んでると痛くなるから」ヒナは答え、顔を上げた。まるでキスしてと言わんばかりに。

どうやら機嫌は直ったようだ。ジャスティンはヒナの背後にころがる本に視線をやり、ああいう本もまんざら悪くはないものだと、にんまりとした。

「どうして笑うの?」ヒナは小首を傾げた。

「幸せだからだ」ジャスティンはよどみなく答えた。

「ヒナも」

ヒナが応じたところで、二人の唇が軽く重なった。チュッチュッと二度ほど音を立てて唇を離すと、ジャスティンは真面目な顔で尋ねた。

「本当か?おじいちゃんに会いに行けなくて怒っているんじゃないのか?」

ヒナは少しだけ考えて、首を振った。

「怒ってない。だって、おじいちゃんはヒナに会いたくないから、仕方がない。でも……」

「でも?」

「お父さんとお母さんには会いに行きたい」ヒナはきっぱりと言った。

「……ん、そうだな」

「でも、ひとりはいや。ジュスと離れたくない。どうしたらいい?」ヒナは行き場を失ったかのように狼狽え、必死にジャスティンにしがみついた。ジャスティンはヒナの背中を擦り、よしよしと耳元で囁き宥めた。

「大丈夫だ。お父さんとお母さんに会いに行けるし、俺は傍にいる」ジャスティンはヒナを安心させるように精一杯心を込めて言った。

「そうなの?」

「そうだ。だからヒナは俺を信じていればそれでいい。何があっても守ってやる」

本当はまだ何も策はなかった。けれど、ひとつずつではあるが、手を打ち始めている。さっきその最初のひとつに手をつけたところだが……。

きっと万事うまくいく。これまでもそうだったように。

つづく


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迷子のヒナ 289 [迷子のヒナ]

「ジャスティンの愛情表現はあからさま過ぎると思わないかい?ジェームズ」

ジェームズは束の間目を閉じ、感情的になるのは賢明な事ではないと自分に言い聞かせた。

けれども、パーシヴァル相手だとそうもいかないのが現状だ。

「押し付けがましいよりはマシです」

「押し付け?ひどいなジェームズ。てっきり僕は相思相愛だと思っていたけど」悪びれる様子もなく、むしろ楽しそうにそんな事を言うパーシヴァルを見ていると、もう少しだけ抗いたくなる。

すでに自室への侵入を許可しているという点では、あまり効果はないかもしれないが。

「思い込みというのは怖いものですね」

「ふんっ。別にいいさ。その他人行儀な喋り方さえやめてくれたらね」パーシヴァルは怒っているふうを装い、ぷらぷらと狭い部屋をうろつき、簡素だが寝心地のいいベッドにちょこんと腰かけた。

「勝手にベッドに座らないで下さい」ジェームズは眉を吊り上げ、厳しく言った。「それから、僕とあなたは他人です」

まったく。だれもかれも――ジャスティンとパーシヴァルだが――喋り方を変えろと、いちいちうるさい。これまでの関係などお構いなしで、家族だから恋人だからと……いや、パーシヴァルは恋人ではない。彼は年中発情中のただの居候だ。しかも、僕の居候ではなく、ジャスティンの居候だ。

「だって、この部屋に椅子はひとつしかないようだから。しかもそのひとつに君が座っている」

ジェームズの部屋はジャスティンやヒナの部屋と違って随分と狭い。それはジェームズが広い部屋だと落ち着かないせいだ。けっして冷遇されているとかそう言うことではない。

だから部屋には、ひとりが横になるに十分な大きさのベッドに、書き物机、衣装棚、それと壁際に本棚があるだけだ。小さな窓が入口のドアの向かいにふたつ。中庭からの灯りが入りこんで来るので、いつもカーテンは開けたままにしておく。

だが、なんとなく、いまは閉めた方がいいような気がした。

ジェームズはなんのためかは分からないが、咳払いをした。

「ところで、ここにいる目的を忘れているようだが?」ジェームズは言った。

「目的はひとつだろう!」パーシヴァルはベッドをパンっと叩いた。

「違うっ!屋敷の件です。ダヴェンポート卿はいい返事をくれるかどうか、何か手を打つ必要があるかどうか、その話で来たはずだ」ったく。

「もうっ。冗談に決まってるだろう。ダヴェンポートだが、たぶん……相場の二倍ほど出せば、屋敷を手放すんじゃないかな?随分金に困っているようだし、どうせなら土地ごと買ったらどうだ?そうしたら、将来僕たちはお隣同士になるわけだ」

「買うのはジャスティンで、僕じゃない。もちろん買うとしたらの話ですが」

そもそも何の使い道もない土地を手に入れてどうしようっていうんだ。ヒナの事が終われば、屋敷も無用だ。たかが数週間、もしくは数日のために、ジャスティンもやり過ぎではないだろうか?

パーシヴァルの言う、愛情表現が過ぎるというのは、まさに言い得て妙だ。

「なんだったら、明日、僕が直接交渉に行ってもいいけど?」パーシヴァルはそう言って、さりげなくベッドに横になった。適切な距離を保つジェームズに、誘うような視線を向ける。

ジェームズは騙されなかった。
パーシヴァルが誘いをかけようとしているのは自分ではなく、ダヴェンポートだ。

「いいえ。彼と交渉するのは僕です。少しはおとなしくしていたらどうですか?」こうやってわざわざ言って聞かせなければならないとは、この先が思いやられる。

ジェームズは部屋に唯一の椅子から立ち上がると、ゆっくりベッドへと近づいて行った。

つづく


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迷子のヒナ 290 [迷子のヒナ]

ジェームズが椅子から立ち上がった。

いよいよ出て行けと言われると思い、パーシヴァルは身構えた。

だがジェームズは無言のままだ。ベッドサイドまでやって来て、パーシヴァルを冷たい青い瞳で見おろす。

パーシヴァルはうろたえ、目を背けた。と、同時にマットレスがわずかに傾いだ。

猫のようなしなやかな動きでベッドにあがったジェームズは、両手でパーシヴァルが顔を背けられないよう封じ込め、ゆっくり頭を落としてきた。

ジェームズはいつも突然だ。拒絶しているのかと思えば、急に距離を縮めてくる。

「少しくらいは僕のことを考えてくれていると期待していいのか?う、うるさく言うつもりはないんだ、けど……不安で」

僕は何を言っているんだ!これではまるで毛の生え始めたばかりのうぶな少年ではないか。むしろ毛の生えていないヒナの方が堂々と貪欲に恋愛を楽しんでいる。

「不安?」ジェームズが美しく整えられた眉をぴくりと動かした。よもやあなたの口からそんな言葉が、とでも言いたげだ。

「キスして放りだされるのはごめんだってことさっ!」

パーシヴァルは顔が熱くなるのを感じた。これでは愛人契約を打ち切られた娼婦のような言い草だ。

そんなパーシヴァルを見て、ジェームズが高飛車に言う。「では、しない方がいいか?今はキス以上のものを期待されても困る」

「いや、して欲しい」パーシヴァルは真顔で即答した。どうせ放り出されるんだ。ならせめてキスをしてからにして欲しい。「ひとつ訊いていいか?どうしてキス以上はダメなんだ?」

愚問だと鼻であしらわれると思った。が、ジェームズは愚答で応じた。

「いまはその時ではない」ジェームズは唇を引き結んだ。

「なんだって?」パーシヴァルは呆然とした。

だったらいつならいいんだ?
その時はとっくにやって来ていたし――随分と前に――それに、うかうかしていると好機を逃してしまう。
例えば、誰にも邪魔されず、二人の距離が縮まった今夜はまさにこの上ない好機だ。

ジェームズが軽く溜息を吐いた。「僕はあなたの嫌いな、女も抱ける男だ。正確に言うなら、女しか抱いた事はない」

知っている。そう口をついて出そうになったが、パーシヴァルは賢明にも口を噤んだ。ジェームズの過去は知っている。それがジェームズの意思に反する事だったことも。どうすれば僕の気持ちを分かってもらえる?身体を求めなければいいのか?そうしなければいけないのなら、そうする覚悟は――これから身につけることにしよう。

「あせらす気も無理強いする気もなかったんだ。ただ……僕は……、好きなんだジェームズ。すごく。どうしたらいいのかわからないほど。だから僕の気持ちを受け入れてくれれば――」

最後まで言えなかった。感情が昂って思うように声が出なかったせいもあるが、最大の理由は、ジェームズに口を封じられたからだ。

ジェームズは容赦なかった。飢えていたのがどっちなのか分からないほど、貪欲に、執拗にパーシヴァルを責め立てた。

これでキス以上望むな?そんな馬鹿な。「あぁ……ジェームズ」

パーシヴァルは力の限り、ジェームズにしがみついた。身体のありとあらゆる部分を密着させ、嫉妬に狂う胸の内を隠そうとした。

ジェームズの技法のすべてはあの女狐が仕込んだものだ。まもなくブライスの義理の母となるブルーアー夫人。ブライス共々、いつか地獄に落としてやる。

けどいまは、束の間の幸せに浸っていたい。

つづく


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